「模範生だから」と書いた安藤鶴夫さん

安藤鶴夫さん。1908年、明治41年の生まれ。1969年に亡くなられているのだけれども、4、5年前に1967年の初めに発行された随筆集「百花園にて」を読むまでは、直木賞作家であることなど名前を知る程度で、著書に触れたことはなかった。                                      図書館から借りた「百花園にて」。その中の随筆のひとつをまた読みたくなって、今また借りている。もちろん、そのひとつだけではなく他のものも面白く読んでいるけれども、とくに読みたくなったそのひとつというのが、「わがトーニョー記」。糖尿ではなくカタカナ書きにしているところには、なにかしらの思いもありそうなのだが、その最後の一行が、                             

「たぶん、わたしが、山本先生の模範生だからだと思っている。」

その言葉が、彼のことを思う時の私の印象に強くある。医師の指示通りに治療に励む模範生。そのように思っていた彼がしかし、その3年半余りのちには、亡くなっていること。まだ60才。そうしたことに、なにかものがなしい思いにさせられるところがあるようである。健康でありたいという願い。それに対して、彼は意志強く、自身が成すべきことをやっていたことがその言葉に見えるから。初めからそうであったというわけではないとしても、そこに至った先にはずっと、これを書いたのちにも正しく配慮をしつづけたにちがいないから。 そこに関心がいってしまうのも、自身も同じ糖尿病で意志の弱さを、はるか以前から変わりなく感じつづけているからでもある。                   この「わがトーニョー記」を読めば、発症の要因も、それからの経緯も分かるのであるが、「模範生」と自認できるまで頑張った彼、それでもそれから数年後には少し早すぎる年齢で亡くならなければならなかった切なさのようなものが、思われてしまう。生きていたその人の日々に、思いを馳せてしまう。

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scene/変わらぬ光そこに見えて

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ある旧約聖書「詩篇」のイラスト

今読んでいる一冊の本には、ところどころにイラストが入っている。使われている色は黒だけ。太い線で描かれ白の部分とのコントラストが際立つ感じに見えたりなどすると、このスタイルならではの良い味がでるね、などと感じつついるうちに、なんだかふいとそれがむかし見たものの亜流であるかのように、思えてきたりなど。                                    それほどにむかしあるアメリカ人からもらった THE PSALMS FOR MODERN LIFE  の中の黒だけで描かれたイラストは、この書の性質もあってか、とても強く印象に残るものだった。斬新なスタイルを感じさせた。ニューヨークの出版社、1934年刊。I dedicate these drawings to my Mother  ALICE SMETHURST WRAGG  とある。版画も、思わせる。その一部をここに。

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植草甚一の自筆日録

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「植草甚一コラージュ日記①」(2003年10月平凡社刊)というのを読んでいるところ。日記は活字に依らず、総て手書き。ここに載せたページの文字は、あるいはご本人満足と思えた清書部分なのかどうかは分からない。ちがうかもしれない。勝手に選んだことを植草さん、どうかお許しのほど。でも、ページによって字体が異なったりしているところなど、その時々のなにかしらの違いが分かるようで、それも彼という人の生の部分に触れる感じのようなものを、与えてくれるようです。                                      この巻では、1976年1月1日から、7月31日まで。1908年(明治41年)8月8日生まれの彼の、68才の誕生日が来る前あたりのでの日記ということになりますか。体調が良くないという日などのところを読むと、3年後の12月2 日に亡くなっている、そうした時期にいた彼の健康事情のことなどが思われてくる。だが、その活動力は、衰え知らずの向きのまま。非凡な人ならではのもの、そう思う。

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Mary、本を見る

意識をしてそこに置いたわけではない。その時のなにかの偶然でこうした形になったのであろうが、覚えていない。こういう一枚を今になって見つけて有難かったのは、思い出したいと思っていた本のタイトルを、はっきりとそこに認めることができたことである。                                              小関智弘著、「東京大森海岸ぼくの戦争」。時代は異なるけれども、自身も住んだ思い出深い土地。名前、場所、結びつくものが次々と出てくる。なにか沁み込んだものになつかしく触れることができるような感覚を覚えることができるのである。                                              そばにいるのは、Mary。

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Books、のこと

図書館から借りていた本が出てくる。すっかりと忘れていた。返却日からはもう10日以上が過ぎている。少し、読んでみる。先が、読みたくなる。では、借り直し。図書館に行くと、あなた、返却日はもう38年も前になっていますよ、遅すぎます、などと言われる。あまりに飛躍する言葉に、それはありえないでしょう、だってこの本が出版されてからまだ、10年にも満たないのですよ。真面目に言うのも、愚かしくさえあることである。オーバーしていたために、再度借りられるのは、3日だけだという。なにか時間に食い違うものがありませんか。38年などと言い出した、あなた。おかしなひとは、どこにでもいるもののようです。                           借りていたのは、かまくら春秋社平成11年刊、「父の肖像」。芸術・文学に生きた父たちの素顔、というのがその内容。息子、娘たちが書いたものを編んでいるもの。                                              それから、多少はなるほどと思えるようなことをひとつ。、あそこ、図書館の棚にあるものはすべて自分のBooks。あそこに、ただ預けているだけ、と考える向きのひとのあること。

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