ほたる観賞会night
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市立医療センター裏の坂道を上がると、一帯が畑地。勝手にこちらが空の色まで変えてしまったけれども、これが、その風景。中央辺りを、あるいは側面を通る道をウォーキング時に歩いて行く。街の中にこうした風景のあるしあわせ、居心地の良さを感じる時間でもありますね。街の中。畑地も田もあるこの辺りを街と言うのが適当かどうか、それは分からないけれども、ともかく内側になる。向こうには街。近接。隣接。 ウォーキング時とはいえ、こちらを通るのは時たま。医療センターは少し低い位置。でも階数の多い建物だから、行きながら振り向くと3階あたりから上の明かりが見える。4階、5階。それぞれがどのような階で、どのような人たちがそこにいるのか分からない。でも、体のどこかを悪くしてそこに入院している人たちのいる場所。不安や痛みのある空間を、感じる。人と出会うことはまずない、土そして草の生えた道を、運動の速度で。
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片づけものをしていたら「馬込文士村散策のみち」と題されたパンフレットがでてきた。東京の大田区土木部管理課、昭和63年3月発行。区立の馬込図書館あたりでもらったものだと思うけれども、発行日を見て、これを手にしたのがいつの頃のことだったのかを改めて知った。
パンフレットには「馬込文士村」命名の由縁について、「大正12年に、尾崎士郎と宇野千代さんが結婚して新居を構えたのが東京府荏原郡馬込村(今の大田区南馬込)です。その後川端康成、山本周五郎、室生犀星、萩原朔太郎といった文士たちがこの地に移り住み、馬込村は文士の交友が盛んに繰り広げられる場所となり」、近年になって「馬込文士村」と呼ばれるようになった、とある。 1979年に私は大森からその南馬込に越したのであるが、それまで文士村については知らなかったのではないかという気がする。記憶が定かではないが、馬込図書館の一角には「文士村コーナー」があったりで、関心を抱いて訪れ、その関係のものを借りたりもするようになった。そうして知った、その地に於ける彼らのさまざまなエピソードなど、やはり興味深いものがあった。何よりも、ここに載せたマップのような文士たちの住所地を見るうち、自身の住んでいる場所 と明らかに一致すると思われる人のいたこと。
4丁目の49に片山達吉、の名がある。私の住んだ家と同じ番地、同じ位置である。何の知識もなかったが、調べて見て、銀行につとめながら文芸評論家として活躍した人であったということを知った。ちょうど、道路の斜め向かい側に川端康成の名があり、その殆ど隣りとも言える辺りに往年の俳優、池辺良さんの父親、画家の池辺釣の名がある。私の住んだ家は家としては末期にあるような古さで、9年ほど住んでそこから越したのも、取り壊されることになったという理由による。それほどだから、その片山氏が同じ家に住んでいたということも、充分に考えられるように思えるのである。1980年代当時からしても、はるか昔のこと、私の住んだ家の手前の臼田坂にしても、当時は土の道でおそらくは下駄などをはいた着物姿で彼らの誰かは歩いたものなのだろうが、ただそうしたことを想像させるだけの、多分当時の面影はどこにも残されていないのではないか、と思わせるような現在の眺め。だが、そこを彼らが通り、近辺に住んでいたのは確か。なにか残るものを、今のその地に重ねていることがあるのだった。このマップ一帯に見える名前の多彩なこと。やはり並々ならない、特異と思われる現象、と言いたくなるものがあったように映ってしまう。 私の住んでいた家のすぐ近くには日本画家の川端龍子(1885-1966)。私はその住まい跡に建てられたものと思える、歩いて2分とかからない見上げるほどの彼の大作並ぶ龍子記念館に、時たま出かけていた。往時を身近に感じることのできるような、場であった気がする。管理する身内の方であったと思う。夏の頃など窓を開いていた、その館内の休憩席に腰を下していると、お茶を運んできてくれたりなどした。そのようなことも、思い起こす。
家の前の臼田坂ということでは、坂上の方に住んでいたらしい俳優の長岡輝子さんが住まいに向けて歩いて行く姿を、見かけたことなどもあったけれども。ついでながら、すぐ近くで車がエンストを起こしたらしくどこかで聞いたような声を上げている、やはり俳優の田中邦衛さんを、見かけたことなどもあったり。 9年余住んだ、懐かしい地である。
1986年頃の臼田坂
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昨日8月12日は、新潟でお墓参り。いつも母の実家である従姉の家にひとまず腰を落着けてから近くの墓地にでかけていきます。昨日も猛暑を感じる午後の時間帯に出かけて、もう汗ダラダラ。でも、それがいつもの夏の盛りの中のもので、流れる汗もそういう感覚で良いものに感じていましたね。 今年は、従姉の横須賀に住んでいる下の妹の次女という女性が泊っていて、初めて会いました。華奢な感じながらやさしげな、そしてとても明るくのびやかな感じの人でしたが、話をきいてみると、彼女は赤の自動二輪車でひとり、東北地方を旅して回ってきたのだというのです。仙台の七夕、青森のねぶた祭りなどを見ながら。ねぶた祭りでは、祭りの衣装になって参加してきているのです。歯科の技工士になるとかで、旅をしながらその方の課題にも取り組んでいるという、なかなか行動力のある、人間としてもスマートな印象を覚える女性でしたね。魅力的でした。
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新聞に掲載された大きなバーミヤン遺跡のカラー写真。その壮大さに魅かれ、眼前にすることへの願望のような思いを抱いて見ていた時期がある。薄い板に張りつけて、室内の一角に立てていたこともあったように思う。前方、彼方にそそり立つ土色の岩、その高さ、その連なりの威容。大仏像の巨大さ。造り上げた人間というものの能力への尊崇のような思い。手前には土地に住む人々の村落の緑が見えて、日々その眺めを見ながら送る生活に、なにか特別な地に住める特権を得たひとたちに感じるような、羨みめいたものも覚えていたようである。そのようにして、あこがれの思いで遺跡の写真を見ていた時から三十余年後の2001年3月、イスラム原理主義のタリバンによって大仏が爆破されるというような、およそ考えられもしなかったできごとが起きている。壮大な遺跡を彼方に見ながら、日々の生活を営めるしあわせを私に思わせたあの写真の村の人々も、住む土地を奪われている。そういう時代があろうなどとは、かつては住む人の誰もが想像だにしなかったことだろう。その後には戻って、その遺跡に住みついているということを知ったが、その苛酷な変転。 私が見たのは、1973年に無血クーデターで国王が国外に追放される以前のアフガニスタンである。まだ戦争も内戦もない時代。どのようなことが内で進行していたのかは私などには知る由もなかったが、何年もしない間にクーデターが起きたところからすれば、王制安泰ではない状況にあったことは分かる。陸づたい、国を横断して次の国に向かうために入ったアフガニスタンに私が感じたもの。それは、時間のながれのゆるやかさ。バーミヤンを日々、彼方に眺めながら送る村人たちの生活は、変わらずに、頭にはターバン、千年前ともほとんど変わらないスタイルの着衣で、未来にわたって営まれていくのであろう。そのように思わせるような、我々の世界とは全く異質な不変のものを、カブールの一角で通りを見下ろしながら、ターバンを特徴的に頭に巻く人々の行き交う姿を追いつつ、感じていた。あるいは北西の街ヘラートで、宿から人の姿のない午後の広い通りを眺めつづけながら。一台の荷車がやってくる。その動き。聞こえてくる音。それはまた、千年前と同じ生活、眺めを思わせた。日干し煉瓦づくりの家も人の姿も荷車も。止まっているかのように感じさせられる午後の時間の流れ。その眺め。私の住む世界とは、まるで異質の世界。ほんの一部を見ただけの自身の感想であるのかもしれない。だが奇妙なことながら、他の国ではそうした感慨を覚えさせられるような場面に出会わなかった。インド、パキスタン、アフガニスタンの向うのイランなどの国々では。 戦争、内戦を経験した国は、今も不安定な状況にある。タリバンの存在。今現在、支援のためにアフガニスタン入りしていた韓国人たちが武装グループに拉致され、既に犠牲者がでているという状況にもある。かつてとは、別の顔を見せている国。 アフガニスタンと言う時、私は、カンダハルの道脇で売られていた緑色の葡萄の味も、思い起こす。甘く、瑞々しかったその味。その大地の恵みの味。
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ここのところ、2度、3度と「第三の男」を見ている。グレアム・グリーンの原作。監督キャロル・リード。1948年9月3日、イギリス公開。日本ではその4年後なのだが、同じ日に合わせて公開をしているところが、面白い。 既にこの世にいない人々ばかりを見る。ジョゼフ・コットン。オーソン・ウェルズ。今改めて見て、なるほどこういうタイプだったのか、ずっとのちになっての貫録たっぷりの肥大した彼の印象とを思い合わせて、思ってみたりなどする。アリダ・ヴァリ。あの印象的な最後のシーンを、その個性をもって演じきっている。個人的に、関心をもって見ているのは、トレヴァ・ハワード。そのイギリス人らしさが、妙に心地よい。いずれも映画の中で老いることもなく、永遠に当時の若さのまま。 というようなことより、戦後のウィーンが舞台であるが、思うのは当時の街の暗さ。それゆえに光が効果的に映画では使われ、白黒ならではの味わいもうかがえるということだろう。そして暗さというと思い起すのは、はるかむかしヒッチハイクでイタリアから入ったユーゴスラヴィア。ベオグラードの夜の街の暗さ。南下してギリシャに向かう間、途中で通った土地、町の夜の異様な暗さ。当時は、ヨーロッパからそうした社会主義国に入って、余計にそれを感じたということがあるのだが。 この画像に見えるのは、地元の在日大韓基督教会船橋教会の屋根に立つ十字架である。暗くなると赤く点灯する。桜並木のある海老川沿いの道そばにあるので、それが川面に映る。暗さゆえに印象的。
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住んでいる処は、台地。ところが至る所から、貝殻が出る。不可解。思うことと言えば、どれほどの果てしない時間を遡ればいいのか分からないが、ここはかつて海の底だったのではないか、ということ。 その一方で、2キロとは離れていないだろう、市街地のそばには田畑があるというこの辺りの一角に、こうした地層が剥き出しになっている場所がある。上の写真は、もう5年ほど以前のことになろうか、撮ったもの。そして下の遠景は現在の様子であるのだが、土建会社所有の場所で、土は削られ運び出されているのである。パワーショベルが上端に入り、土を掘り出しているところからすると、いずれはきれいに見えていたこの地層も、上から歪み崩れていきそうな気配である。運動のために歩く時など、この前を通ることがある。遠くからでも、眼に入れば気になる。そこには、眼に見えるかたちで想像を超えた長さの時間の推移が刻まれているからである。またこちらには、謎でしかないようなこと。どのような地下の変化から、その一帯が浮いてきたのか、等々。
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陽射あたたかな春の運動公園、のどかです。市民野球場からは弾けるような太鼓の音が聴こえ、歓声が上がる。スタンドに上がってみれば、高校の野球。春季の地区大会の最中で学館船橋高と習志野高のゲーム中。デッドボール、じっさい痛そうである。一塁にヘッドスライディングする。必死さが伝わってくる。監督の威勢の良い声は、真剣である。ピッチャーのボール、高めに浮いてるな。センターからのバックホーム。みんな負けまいと、たたかっている。
広場の向こうに、先生の話を聞いている女子生徒たちの姿があった。運動着に変えてのものであるならここでは自然に映るが、制服姿のままというところからも印象としては、女子高の合唱部に所属する生徒たちが顧問の先生の話をきいているというような様子に映る。先生も、運動向きとも見えない、ソフトで紳士的といったタイプ。柔らかな、だがしっかりと意図を伝える語調で、生徒たちは、その言葉にじっと耳を傾けている。
雌の野良猫のメリー。もう少しで大人、といったあたりのところにいる。辺り一帯にいるのは、このメリーと雄猫のビービーくらいのもの。口笛でこちらのいることが分かるとそばにやってくる。cat food を与える。こちらの向かうところに、ちゃんとついてくるというように、慣れた間柄と言えますか。 今日は、このようにこちらの足元で足を伸ばしたりなど。
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