ちょっとエーリッヒ・フロム

   Erich Fromm , 1900~1980 。ある本で彼に触れた部分を今日ちょっと読んで、ふううむ・・・・・と。敬虔なユダヤ教徒の家庭に育つ。苛立ちやすい父親と、うつっぽい母親の間に生まれた、一人息子。・・・・・・26才の時に精神分析を受けた後に、ユダヤ教を放棄。精神分析を受けた後に・・・・・・・・・。ふううむ。・・・・・・・1941年、著書「自由からの逃走」。                                                                                           

                                                                                                                                                                                            

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安藤鶴夫さんの随筆「禁煙について」のこと

今はもう煙草を吸わないけれども、自分が最も煙草を吸っていた頃、煙草なしではいられないと思えた頃にしても、一日の本数、20本入りを二箱程度だったような気がする。それでは足りずにもう少し吸ったことが稀にあったのかもしれないが、大体、その程度。それでもよく吸っていたという印象が今に残っている。だから、一日に100本を越えようかという本数を言われると、どのようにしたらそれほどの数を吸えるのか、現実的に考えられない思いがする。                                              

安藤鶴夫さんは、その随筆「禁煙について」(1964)の中で、旧制中学の15の時から吸い始めて、これを書いた2年ほど前に最後の禁煙を始めた前辺りが、40年近くの間の最も多い喫煙量になっていたと書いている。その量が一日100本余。買っておく10本入りのホープの10箱は一日にして消え、ホープに麻痺した口を治すためのメンソールのセーラムも、それに加わる。どのようなペースで吸いつづけるものなのか、中毒と言うしかなさそうな喫煙量だから、その理由など改めて想像してみるまでもなさそうながら、考えてみたくもなる。

それを、彼は止める。不可能と思えるようなことを実現してしまう。理由は、健康のため。それもただ健康のためというようなものではなく、そこまで行かざるを得ないような究極必要なことのため、と言った方が良いのだろうと思う。糖尿病の他に、高血圧。それも高い方が異常に低く、低い方が異常に高いという悪い型。煙草の害を、信頼する若い山本先生にいつ指摘されるか気がかりだった彼にある日、先生は一日20本にできないかと言う。安藤さんは、出来ないと答える。

そんな中途半端な数は、いやなのである。とことん吸うか、ゼロにするかの選択しかしたくない。それではお止めなさいと言われる。そこで、その時持っていた煙草をその場で捨てる。気持を決めるのである。                                       それが最後の禁煙の始まり。ということであるのだが、私が彼の禁煙のことに絡んで関心を抱くのは、彼の心にあるもの。それは禁煙ということに限らない、もっと深いところにある意味合いに通じていることのように思えるからなんだろう。

彼の、医師山本先生に対する絶対の信頼。「信じるひとのひとことで、止められたのである」、と言っている。そこには彼その人ならではのものもあるのだろうと思う。その心の動き。自身、同じように医者に行っている身でいて、これまで医師に何を言われようとその医師の言葉であるからと、本当に必要なことをやろうとしたことはない。絶対の信頼を抱いている医師がいないこともあるけれども、例えいたとしても、その信頼を気持の支えに、自分をどこまでも律していくことなど考えられないと思っている。

「さてそこで、あなたにそんなひとがいるかいないか、ということになる」、と最後に彼は言っている。こめられている思いは、強いのである。あなたにそんなひとはいるか? 自分にはいる。そう誇らしげに言っているかのようなその言葉には、ある信仰に帰依する者に似たような強い思いが感じられて、印象に残る。そこまで思いがいくものなのかな、と思わせるほどのもの。それほどまでに信頼された医師もしあわせであるけれども、彼の言葉には、色々と思ってみたくなるものがある。

                                                                                        

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move to 別エリア

十人十色。ということは、見方は、さまざまということ。その中の、あなたは一つの色、ということであるけれども、でもその内には別の色もあるかもしれない。もちろん、別のひとつの色だけでないかもしれない。そうした別の色をもって、別の角度から今まで殆ど無意識のうちにやりつづけてきたことを、ちょっと見直してみるのはどうだろうか。というようなことを実は、あなたに、ではなく自身に対して。柔軟性にも、物を考える力にも欠けるこちらの方に、改めて。

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inside/それぞれの輪郭

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摩詞般若波羅蜜多心経(般若心経)──訳の紹介

20年ほど前に母が亡くなった時に、般若心経を覚えた記憶があります。ただ、漢字の羅列。意味するところ良く解らない部分などあり。ある時、なにかの本の中にここに紹介する、心経の意味を分かりやすく訳したものを見つけて、ワープロでコピー。たまたま今日これを眼にして、あるいはこれを参考にしたいと思う方もおられるのではないかと、ここに。

 詞般若波羅蜜多心経──偉大なる知恵の彼方に到達する肝腎な教え

真理を観る眼の開けた大人はその深い叡智によって肉体も精神もすべて空であると照見して一切の苦しみ災厄から救われる舎利仏よ肉体は空を離れては無い空は肉体を離れては無い肉体はそのまま空であり空はそのまま肉体である感覚も想念も意欲も自我さえもその通りである舎利仏よすべては空であるから生まれることも無ければ滅することもない汚れもしなければ奇麗にもならない増えもしなければ減りもしないだから空の中には肉体も無く感覚も想念も意欲も自我も無い眼も無く耳も無く鼻も舌も体も意も無い色も無く声も無く香も味も触れられるものも想われるものも無い見る世界も無ければ曽て経験した世界も無い盲目的本能も無ければ盲目的本能の尽きることも無い苦悩も無ければその原因である愛執もそれからの救いもそのための修行も無い知ったというのも無ければ亦得たというのも無い本来得らるべき何ものも無いからである菩薩方はこのような徹底した叡智に依って心中なんのこだわりも無いこだわりがないから恐怖が無い恐怖が無いからあらゆる混迷邪念から救われて静寂なる境地が得られるのである三世の諸仏方もこの偉大なる叡智によってその尊厳な普遍的人格を自覚されるのであるだからよく知っておくがよいこの偉大なる叡智こそ最も神秘な呪文であり光輝ある呪文であり最高の呪文であり他に比類なき呪文であるしかもこの呪文が世の中のあらゆる苦難を排除することは真実であって一点の虚妄も無いではその偉大なる叡智の呪文を示そうーー着いた着いた彼岸へ着いたみんな彼岸へ着いたここがお浄土だった

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むかし聞いた「トリップ」の言葉

「植草甚一スクラップブック11」(1976晶文社)の中身。だいたい1960年代後半から70年代前半辺りまでの諸々。麻薬、LSD、ヒッピー、等々。そうして、「トリップ」。幻覚剤足りうるものを吸い、飲み、そして幻覚の世界を巡り、通常の感覚では出会えないものに触れるような体験をする。その「トリップ」。そうした関心が、時代のあるひとびとの中を縫い、関心の高まりがあった。というかなたの時代、そしてその後。                                いまーーー。あの時代にあって、こちらの時代からは消えているように思えるもの、思ってみたりなど。

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見上げる/しづけさの中の観音

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                                                   無際限の、穏やかな、安らぎの世界へと導き入れてくれるかのようなその姿。世界がそのような場所であればという思い、どの人間の中にもあるのだろうけれども。

     

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今がいつの時代かと問う脱時間人

ちょっと思うことに、例えばそこは戦場。現代の地上戦ならば殺傷能力の高い種の銃器。はるか昔ならば刀であるとか。そうしたものを武器に敵と向き合う場所にいることを想像する。自分の身が吹き飛び、あるいは斬り倒される可能性のある最前線にいるそのような時、ずっと離れたところからその自身を見ているもう一人の自身を感じていることはないものだろうか。例えばのこと。                                     その最前線にいるのは仮の姿をした自身。本当の自分はこちら側にいるはずなのに、と思っている。だが、最前線に押し出されているその仮の姿とも思える自身こそが現実の真っ只中にいて、斬り倒されれば苦しみあえがなければならない。その死と共に、こちらにいた本当の自分と思えていた者も、消滅している。そうした現実という前線にいる自身と、距離を置いて見る、もう一人の自身が共に存在する私。そうした二人を抱える形になっている状況。居場所としては、不幸な匂いただよう処ということになるのでしょうか。

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相撲部屋/異常な事件

当ブログの9月29日、「異様な世界の異常な死」において触れた、ひとりの若者の死を巡る出来事。どのような背景に於いてそれが起きたことなのか、われわれはただ推測してみることができるだけに過ぎないけれども、自らが直接、間接に殺人を実行しつつあることに自覚のない精神状況というのは、どのような場合なら考えられるかを思う。親方、そしておそらくは再び土俵に上がれることはないだろう、兄弟子なる者。なにが彼らを、一線の向こうまで行かせていたのか。

いずれにせよ、人間性の破綻をさえ思わせるこの親方にして──というのがそもそものこの事件の本元、ということなのではないだろうか──。最早、取り返しがつかない。

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異様な世界の異常な死

出会いというのは、とても不思議なものでありますね。おそらくは絶対に結びつくはずのない者同士が、例えば昨日まではるか遠く離れた国にいたあのひととこのひとが、今日銀座のあの地下の店で隣り合わせて、あるいは深いつながりの端緒がそこで生まれることになっているかもしれない。愛。運命的なものとなるかもしれないのです。たとえばのはなし。でも、あんな処には近づかない方が良いよ、あなたの人生を狂わせすべてを失うだけだよと運命の神様なるものが、何処かでもどかしげに伝えようとしていたはずの出会いというのもあるわけなのです。それが当人には伝わらない。姿の見えない、その神様。当人は知らずに近づいて、ついにはその出会いに翻弄されて、命さえも失うことが起きてしまう。                                                大相撲の某部屋で17才の命を失うことになった、私と同県出身の斉藤俊君のご冥福を祈りたい。ご家族の無念を思う。

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