安藤鶴夫さんの随筆「禁煙について」のこと

今はもう煙草を吸わないけれども、自分が最も煙草を吸っていた頃、煙草なしではいられないと思えた頃にしても、一日の本数、20本入りを二箱程度だったような気がする。それでは足りずにもう少し吸ったことが稀にあったのかもしれないが、大体、その程度。それでもよく吸っていたという印象が今に残っている。だから、一日に100本を越えようかという本数を言われると、どのようにしたらそれほどの数を吸えるのか、現実的に考えられない思いがする。                                              

安藤鶴夫さんは、その随筆「禁煙について」(1964)の中で、旧制中学の15の時から吸い始めて、これを書いた2年ほど前に最後の禁煙を始めた前辺りが、40年近くの間の最も多い喫煙量になっていたと書いている。その量が一日100本余。買っておく10本入りのホープの10箱は一日にして消え、ホープに麻痺した口を治すためのメンソールのセーラムも、それに加わる。どのようなペースで吸いつづけるものなのか、中毒と言うしかなさそうな喫煙量だから、その理由など改めて想像してみるまでもなさそうながら、考えてみたくもなる。

それを、彼は止める。不可能と思えるようなことを実現してしまう。理由は、健康のため。それもただ健康のためというようなものではなく、そこまで行かざるを得ないような究極必要なことのため、と言った方が良いのだろうと思う。糖尿病の他に、高血圧。それも高い方が異常に低く、低い方が異常に高いという悪い型。煙草の害を、信頼する若い山本先生にいつ指摘されるか気がかりだった彼にある日、先生は一日20本にできないかと言う。安藤さんは、出来ないと答える。

そんな中途半端な数は、いやなのである。とことん吸うか、ゼロにするかの選択しかしたくない。それではお止めなさいと言われる。そこで、その時持っていた煙草をその場で捨てる。気持を決めるのである。                                       それが最後の禁煙の始まり。ということであるのだが、私が彼の禁煙のことに絡んで関心を抱くのは、彼の心にあるもの。それは禁煙ということに限らない、もっと深いところにある意味合いに通じていることのように思えるからなんだろう。

彼の、医師山本先生に対する絶対の信頼。「信じるひとのひとことで、止められたのである」、と言っている。そこには彼その人ならではのものもあるのだろうと思う。その心の動き。自身、同じように医者に行っている身でいて、これまで医師に何を言われようとその医師の言葉であるからと、本当に必要なことをやろうとしたことはない。絶対の信頼を抱いている医師がいないこともあるけれども、例えいたとしても、その信頼を気持の支えに、自分をどこまでも律していくことなど考えられないと思っている。

「さてそこで、あなたにそんなひとがいるかいないか、ということになる」、と最後に彼は言っている。こめられている思いは、強いのである。あなたにそんなひとはいるか? 自分にはいる。そう誇らしげに言っているかのようなその言葉には、ある信仰に帰依する者に似たような強い思いが感じられて、印象に残る。そこまで思いがいくものなのかな、と思わせるほどのもの。それほどまでに信頼された医師もしあわせであるけれども、彼の言葉には、色々と思ってみたくなるものがある。

                                                                                        

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move to 別エリア

十人十色。ということは、見方は、さまざまということ。その中の、あなたは一つの色、ということであるけれども、でもその内には別の色もあるかもしれない。もちろん、別のひとつの色だけでないかもしれない。そうした別の色をもって、別の角度から今まで殆ど無意識のうちにやりつづけてきたことを、ちょっと見直してみるのはどうだろうか。というようなことを実は、あなたに、ではなく自身に対して。柔軟性にも、物を考える力にも欠けるこちらの方に、改めて。

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inside/それぞれの輪郭

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摩詞般若波羅蜜多心経(般若心経)──訳の紹介

20年ほど前に母が亡くなった時に、般若心経を覚えた記憶があります。ただ、漢字の羅列。意味するところ良く解らない部分などあり。ある時、なにかの本の中にここに紹介する、心経の意味を分かりやすく訳したものを見つけて、ワープロでコピー。たまたま今日これを眼にして、あるいはこれを参考にしたいと思う方もおられるのではないかと、ここに。

 詞般若波羅蜜多心経──偉大なる知恵の彼方に到達する肝腎な教え

真理を観る眼の開けた大人はその深い叡智によって肉体も精神もすべて空であると照見して一切の苦しみ災厄から救われる舎利仏よ肉体は空を離れては無い空は肉体を離れては無い肉体はそのまま空であり空はそのまま肉体である感覚も想念も意欲も自我さえもその通りである舎利仏よすべては空であるから生まれることも無ければ滅することもない汚れもしなければ奇麗にもならない増えもしなければ減りもしないだから空の中には肉体も無く感覚も想念も意欲も自我も無い眼も無く耳も無く鼻も舌も体も意も無い色も無く声も無く香も味も触れられるものも想われるものも無い見る世界も無ければ曽て経験した世界も無い盲目的本能も無ければ盲目的本能の尽きることも無い苦悩も無ければその原因である愛執もそれからの救いもそのための修行も無い知ったというのも無ければ亦得たというのも無い本来得らるべき何ものも無いからである菩薩方はこのような徹底した叡智に依って心中なんのこだわりも無いこだわりがないから恐怖が無い恐怖が無いからあらゆる混迷邪念から救われて静寂なる境地が得られるのである三世の諸仏方もこの偉大なる叡智によってその尊厳な普遍的人格を自覚されるのであるだからよく知っておくがよいこの偉大なる叡智こそ最も神秘な呪文であり光輝ある呪文であり最高の呪文であり他に比類なき呪文であるしかもこの呪文が世の中のあらゆる苦難を排除することは真実であって一点の虚妄も無いではその偉大なる叡智の呪文を示そうーー着いた着いた彼岸へ着いたみんな彼岸へ着いたここがお浄土だった

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むかし聞いた「トリップ」の言葉

「植草甚一スクラップブック11」(1976晶文社)の中身。だいたい1960年代後半から70年代前半辺りまでの諸々。麻薬、LSD、ヒッピー、等々。そうして、「トリップ」。幻覚剤足りうるものを吸い、飲み、そして幻覚の世界を巡り、通常の感覚では出会えないものに触れるような体験をする。その「トリップ」。そうした関心が、時代のあるひとびとの中を縫い、関心の高まりがあった。というかなたの時代、そしてその後。                                いまーーー。あの時代にあって、こちらの時代からは消えているように思えるもの、思ってみたりなど。

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見上げる/しづけさの中の観音

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                                                   無際限の、穏やかな、安らぎの世界へと導き入れてくれるかのようなその姿。世界がそのような場所であればという思い、どの人間の中にもあるのだろうけれども。

     

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今がいつの時代かと問う脱時間人

ちょっと思うことに、例えばそこは戦場。現代の地上戦ならば殺傷能力の高い種の銃器。はるか昔ならば刀であるとか。そうしたものを武器に敵と向き合う場所にいることを想像する。自分の身が吹き飛び、あるいは斬り倒される可能性のある最前線にいるそのような時、ずっと離れたところからその自身を見ているもう一人の自身を感じていることはないものだろうか。例えばのこと。                                     その最前線にいるのは仮の姿をした自身。本当の自分はこちら側にいるはずなのに、と思っている。だが、最前線に押し出されているその仮の姿とも思える自身こそが現実の真っ只中にいて、斬り倒されれば苦しみあえがなければならない。その死と共に、こちらにいた本当の自分と思えていた者も、消滅している。そうした現実という前線にいる自身と、距離を置いて見る、もう一人の自身が共に存在する私。そうした二人を抱える形になっている状況。居場所としては、不幸な匂いただよう処ということになるのでしょうか。

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相撲部屋/異常な事件

当ブログの9月29日、「異様な世界の異常な死」において触れた、ひとりの若者の死を巡る出来事。どのような背景に於いてそれが起きたことなのか、われわれはただ推測してみることができるだけに過ぎないけれども、自らが直接、間接に殺人を実行しつつあることに自覚のない精神状況というのは、どのような場合なら考えられるかを思う。親方、そしておそらくは再び土俵に上がれることはないだろう、兄弟子なる者。なにが彼らを、一線の向こうまで行かせていたのか。

いずれにせよ、人間性の破綻をさえ思わせるこの親方にして──というのがそもそものこの事件の本元、ということなのではないだろうか──。最早、取り返しがつかない。

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異様な世界の異常な死

出会いというのは、とても不思議なものでありますね。おそらくは絶対に結びつくはずのない者同士が、例えば昨日まではるか遠く離れた国にいたあのひととこのひとが、今日銀座のあの地下の店で隣り合わせて、あるいは深いつながりの端緒がそこで生まれることになっているかもしれない。愛。運命的なものとなるかもしれないのです。たとえばのはなし。でも、あんな処には近づかない方が良いよ、あなたの人生を狂わせすべてを失うだけだよと運命の神様なるものが、何処かでもどかしげに伝えようとしていたはずの出会いというのもあるわけなのです。それが当人には伝わらない。姿の見えない、その神様。当人は知らずに近づいて、ついにはその出会いに翻弄されて、命さえも失うことが起きてしまう。                                                大相撲の某部屋で17才の命を失うことになった、私と同県出身の斉藤俊君のご冥福を祈りたい。ご家族の無念を思う。

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「穴があったら入りたい」、という種の体験

あちらに見えるこれぞ望ましい誰が見ても頷ける、少なくとも可もなし不可もなしの演技、あるいは行為、あるいはこしらえもの。それはなんであっても良いのですが、ともかく途方もないような失態と感じさせないものであれば、最低限度宜しいのです。本人がそれと感じなければ全然問題はない。鈍感であるほど、しあわせなことはないのかもしれない。ところがその時には感じなかったようなことが、後々になって漸くにしてその行ったことの何たるかを思い知らせるような頭のもたげ方をすることもあるのですな。赤面の至り。悶えたいほどに効きだしてくることもあるのです。ああ、「穴があったら入りたい」、そのような攻撃に苛まされるようなこと。                                             そのようであるのかもしれない、そうでないのかもしれない。今度のさる国トップの辞任の仕方には、ご同情と共にそのような気配なども見る向きがあるようですが──まあ、ひとのことはともかく。

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「世も末と嘆きたくもなる」、の言葉

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異なる人種というのが人間の間にはあって、理解をしあうのが非常に難しくなる場合があるようです。もちろん同じ人間同士、非常に良く分かり合えることもあるわけで、そのようであれば、問題はない。問題は、理解不能といえるくらいに離れている場合でしょう。                                            今日の某新聞朝刊の一面コラムは、「世も末と嘆きたくもなる」の言葉で始まっています。名古屋で起きた闇サイトで知り合った3人が、若い女性派遣社員を拉致殺害したことに触れています。真にごもっとも、と思われることが書かれています。じつに無思慮な愚かしい連中。それは言うまでもないことであり、現実にやったことは、極刑妥当なこと。だが、それは、哀しいかな、こちらサイドからの眺め。どのような背景からついには、人間らしい心の欠片もない異様な種へと変化をするに至ったのか、そのあちらの闇。そこが見えないと現実に起きた事件も分からない。新たな闇をつくりだす場ともなるような展開を見せる社会、世界というものも見え隠れする危うい現状のことも、思わなければ。

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その真似はできないだろう

3年前につづいて私の故郷新潟は、また地震に見舞われた。前回は直接に被害を受け、今回は、育った土地の人々にも結びつき深い近隣の柏崎に大きな被害をもたらした地震。とはいえ、前のあのような地震を経験した人々にとっては、再来を思わせるような揺れは、それ自体不快極まりない精神的に耐えがたいことだったのではないだろうか。その恐怖感に地域全体が、おおわれた時間があったわけである。私の従姉の夫は、長岡市の病院に入院していた。普通でさえ、誰しもがただならないような揺れが始まれば、最悪に近いようなことまで脳裡をよぎるのではないだろうか。ベッドから動けないような人々にとっては、恐怖であるはず。そうして被災地では、家の崩壊を見なければならない。突如として、地獄に突き落とされでもしたかのような、およそ考えられない急変を経験する。そうしたことに、人は耐えられるのだろうかと思うほど。自然に平穏に日常的に流れていた時間が、突如として刃先鋭いものでぶった切られるような現実である。まだ、打撃に見舞われたばかり。                                                     小学校4年の時に、修学旅行と言えばいいのだろうか。先生に引率されて柏崎に行きました。長岡発の信越線。その塚山駅までバスで行って、それから長鳥だとか北条、安田など、懐かしい名前の駅を通って6つ目が柏崎。4分ほどで着く次の鯨波で下りて、海岸に。初めて見た海。岩に当った波を受けておどろいた思い出。                                                    いま、懐かしいその街の人々が、避難所にいる。

およそかけ離れた存在。失う家も、住まいもない。つまりは、失うものがないということである。布団もなければ、皿の一枚もない。                               運動公園の中、市立体育館のいわば軒下にいる五十前後なのか、痩せたひとりの男。自転車一台とバッグ、それだけ。あの厳寒の冬の最中も、風雨に荒れる日も、夜は軒下のコンクリートの上に布か新聞紙か、敷くだけで寝てきているのである。その忍耐力は尋常なものではない、と思うしかない。だがその尋常ではないものが、当たり前の日常感覚となっているということだろう。この男は、避難所に入ることさえ、拒んでいるもののように映る。

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尻露出女先を行く

見慣れたものとなるはるか以前の、最初のひとりはそれはちがった視線を受けることになるだろうね。例えばの話、見慣れない奇矯とも思える髪型。、:現在では出尽くしのような感もあり、なにがでてきたところで、もう誰も度肝を抜かれるようなこともないと断言できる。そうした傾向は、もうはるか以前からのことだから髪などというのは例えも良くないが、いずれにしても見慣れない、度肝を抜かれるような、良く言えば「斬新」なものの登場に我々は出会ったりなどするわけですな。                                   これは斬新とは程遠いことではあるけれども、5、6年前のこと。近くの県立高校から帰るひとりの女子生徒の、こちらに与えたおどろき。正門の他に、グラウンド脇を通っても登下校ができる。住宅のある道は、学校側で行き止まりになっているから、人の通りは殆どない。そばに住む住民の姿も見ない時間が多い。グラウンド脇の階段を上がって、こちらの道に入ってきたその女子の行動が、なんとも。歩きながら、煙草をとりだすと火をつけた。制服姿、学校の至近。お見事、と言えるようなことでもない。場面として、相当に逸脱の大きな印象。では、男子生徒ならどうかと言えば、ありそうな景色ではある。そのあたりの男女による印象のちがいは微妙な部分だけれども、ともかくひとむかし前の感覚からすれば、その女子の行動、やはり度肝を抜かされそうなものになるんだな。                                                                 その点ではこちらも同じようなものだろう。尻見せパンツと言っても良いような、最近見かける女性のジーンズなど、腰部分の切り下げられたもの。腹の下部の次は尻。これもひとむかし前の感覚からすれば、という話になる。ここに「良い意味での斬新」か否か、などということを持ってきたら、その答えはこちらに求めないで欲しい、と言うしかない。                                  過日、いちおうは近辺と言えるちょっと離れた地域を自転車で走っていると、二十代の半ばほどとおぼしい女性が、髪をなびかせこちらを追い越して行った。と共に眼にいやでも入ってきたのが、尋常ではない尻の見え方である。締め付けるジーンズ上端ははろかに下がり、両の尻の間の暗がりがすっかりのぞけている。眼の保養などとたのしむ向きもあるだろう。趣味の問題が絡みそうだが、申し訳ない、こちらはこれ見よがしなそうした景色が苦手。信号の手前で先に走り出して、これで目障りなものとおさらばできるとひと安心したら、なんのことはない、あちらの方のエネルギーが勝って、またこちらを追い越して行く。 だがなんにしても、尻の間まで見せつけることはないだろう?

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その瞬間、のこと

生まれおちてから、死を迎えるその時まで、我々は生身の体をもって動きつづけ、生きつづけなければならない存在。ちょっと不都合なことがありますので、この生身の体からしばらく抜けさせていただきたいと存じます。可能でしょうか? 馬鹿々しい質問です。誰も、そのような頓馬なことを言い出しはしないですな。叶わないことを、誰もがご存知だからですが、それゆえにこそ、深刻な病、あるいは他の理由から、幼児から最後の時近い人に至るまで、酷過ぎるようなくるしみともたたかわなければならないことになるのは、何とも言い難いこと。魔法のように、その人に宿るくるしみ生むものすべてが浄化されて、清々しく軽やかな心身が与えられるならば、と切実に願うことです。                                               いずれにしても、われわれが与えられているのは、ひとつだけ。ひとつの生身の体だけ。たとえ10万年の命が与えられたとしても、どこまでもこの体、この「私」という人間のひとつのアタマとつき合い続けなければならない。果たしてそれを、ひとは望むものかどうか。そのひとつのアタマの今、この瞬間のことに、触れてみたくなった。この瞬間、あるいはその瞬間。                                                 何の変哲もない、いつもと変わりなく何事も起こりそうにない、起こるとも思えない時間の中にいる。例えば、電車の中。風景は過ぎて行き、おそらくは記憶に残ることもないだろう向かいの人々の顔など、漠とした感覚で見ているかもしれない。日常的な、ありきたりの流れの中。用向きのある街の駅に着く。ドアーの外に出る。電車は動き出し、そして、手元にあるべきはずのもののないのに、気づく。当のものは、走り出した電車の網棚の上。それは、用向きある場所にとっては、重要な書類。それを失くすることは、途方もない責任問題に発展する可能性がある。変哲のない日常の時間の流れが、急転する、その瞬間。生身の体は、逃げられない。アタマは、追うことを考えないといけない。恥ずかしいかな、これには個人的な経験が重なる。このようなことに触れたくなったのも、あるニュースを聞いて少々興味を覚え、思ったことなどがあったからである。                                  そのニュース。某県の県警交通捜査課の52才の警部補が、同僚と飲酒をした後に路上で居眠りをした。自身の感覚では、いかに酔っていたとはいえ、それ自体考えられないような状況であるのだが、そのさいに捜査情報の入ったカバンを失くしてしまう。その情報は、本部長通達で外に持ち出すことが全面禁止されているものであった、という内容。                                       さてそこで、ということになる。この52才氏、彼にとっての、その瞬間、はどのあたりにあったのか。現実に起こしたことの責任の重大さに、否応なく向き合わなければならなくなった、最初のその瞬間。そのアタマの中。彼が逃れられない、自身の身体を最も意識せざるを得なかった、その最初の瞬間。

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残酷なできごと-事無げに見る異常

当ブログで5月11 日、「球場の向こうで」というタイトルで傷ついて片目の見えなくなっている運動公園のBBのことを書きました。その記事を読んだ、さる花の写真を非常にうつくしく撮る方がメイルをしてくれて、そこに「そのネコの傷ついた画像も見たかった」という言葉を置かれた。BBのそうした姿に、こちらの気持が非常に傷んでいることを知りながらも、そのように書いてきているということでしょう。ひとの感覚は、それぞれで真意のほどは分りません。その方になにか普通とはちがった趣味的なこと、あるいは感覚があるものとも思いませんが、私がその言葉に、普通ではないもの、そしてショックを受けたことは確かなのです。

たまたま今読んでいるシベリア生まれのロシア系フランス人、アンドレイ・マキーヌという作家の「たった一つの父の宝物」という小説の中にこのようなことがでてきます。この父である人物が子供の頃、戦場となった自分の村で幼い弟がドイツ兵に銃剣で串刺しにされる、というところを眼前にする。そのドイツ兵は、その場面を残したいがためにカメラの前でポーズをとるのです。戦場という非日常的な場での、それが殆ど日常と化す可能性のある、およそ人間のすることとも思えない異常な行動。                                       そうでなくとも人間の心などというのは、非常に繊細、デリケートにできているもの。些細なひとつの出来事にさえ、刺激を受け、不安定に動き出しかねないものです。その繊細な人間の心が、ほとんどあらゆる戦場で見せる、残酷なまでの攻撃性、そしてそれに対する麻痺。                                                    会津若松市の母親の首を持ち歩いた少年。そこはむろん戦場などではありません。だが行なわれたことは、どちらともつかないものです。この少年は生涯、自身の犯した行為と向き合いつづけなければならない。でも、それは戦場でのできごとのようなものだったのだとすれば、この少年の記憶の中では、どのようなものとして残っていくことになるのかを思います。どういう戦場がそこにあったのか。どのような、その繊細な人間の心を襲う、一線をはるかに超えさせる力がそこにはたらいたのか。

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