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2007年11月の投稿

植草甚一の自筆日録

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「植草甚一コラージュ日記①」(2003年10月平凡社刊)というのを読んでいるところ。日記は活字に依らず、総て手書き。ここに載せたページの文字は、あるいはご本人満足と思えた清書部分なのかどうかは分からない。ちがうかもしれない。勝手に選んだことを植草さん、どうかお許しのほど。でも、ページによって字体が異なったりしているところなど、その時々のなにかしらの違いが分かるようで、それも彼という人の生の部分に触れる感じのようなものを、与えてくれるようです。                                      この巻では、1976年1月1日から、7月31日まで。1908年(明治41年)8月8日生まれの彼の、68才の誕生日が来る前あたりのでの日記ということになりますか。体調が良くないという日などのところを読むと、3年後の12月2 日に亡くなっている、そうした時期にいた彼の健康事情のことなどが思われてくる。だが、その活動力は、衰え知らずの向きのまま。非凡な人ならではのもの、そう思う。

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アポリネールの、ミラボー橋

ギヨーム・アポリネール(1880-1918)の詩集「アルコール」(1913年刊)。             読んでいたのは、はるか昔というようなことになるけれども、深く記憶に残る。その最初にある彼の代表作「地帯」。その中の次のような詩行。

君は焼けつくようなこの酒精を君の生命のように飲む                       焼酎のように君が飲む君の生命

酒精に、アルコールのルビ。堀口大学の訳。                            たまたま図書館から借りた詩人たちの紹介、解説の並ぶフランス詩の本。その中のアポリネールの欄にあった作品が「ミラボー橋」。それを見てすぐに、自身が諳んじているミラボー橋、訳のものでありながらミラボー橋としてそれ以外にはありえないと思っていたそれと全く別のものであることが分かって、ショックを覚えたのである。訳者が別。その訳は、申し訳ないけれども印象としてぎこちなく、つかえてスムーズに流れない詩語のつながりを感じさせた。これは全然別の詩、と思わずにはいられなかったというのが、その時の実感。もちろん翻訳である。絶対にこれ、という訳があるというわけのものではないから、それは訳者によってちがってくることは分かる。でも、これは別の、ミラボー橋に似たところがなくもない別の詩、という感覚は、あとになってもやっぱり変わらない。それだけ、堀口訳がこちらにはしみこんでいる。声に出し、思いをこめてくりかえし読んだのである、むかし。今もこの詩を、限りなく愛している。

     ミラボー橋

ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ

         われらの恋が流れる

     わたしは思い出す

悩みのあとには楽しみが来ると         

          日も暮れよ 鐘も鳴れ                                                                

          月日は流れ わたしは残る

手と手をつなぎ 顔と顔を向け合おう

         こうしていると

   二人の腕の橋の下を

疲れたまなざしの無窮の時が流れる

          日も暮れよ 鐘も鳴れ

          月日は流れ わたしは残る

流れる水のように恋もまた死んでいく

           恋もまた死んでいく

    命ばかりが長く

希望ばかりが大きい

           日も暮れよ 鐘も鳴れ

           月日は流れ わたしは残る

日が去り 月がゆき

           過ぎた時も

   昔の恋も 二度とまた帰ってこない

ミラボー橋の下をセーヌ河が流れる

            日も暮れよ 鐘も鳴れ

            月日は流れ わたしは残る

行間が正しく表記されていなくて申し訳ありません。ルフラン部分の前後が、一行空きになります。

                                                昔、銀座の銀巴里でも、聴いたものだった。シャンソンで、この、ミラボー橋。

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テーブルの上、落葉あり

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今年の秋も、もう終わり。2007年の秋。記憶に残るものと言えばなにがありますか?                                               運動公園でいつも会っていたcat、BBがいなくなりました。いつも会うと、やっとのこと出しているような声を洩らしていたところからすると、老いた先にあるあの方角に行ってしまったものと思えます。でなければ、消えてしまうことなどありえないはずなのですから。いつまでも、こちらの記憶に残るものと思います。

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今がいつの時代かと問う脱時間人

ちょっと思うことに、例えばそこは戦場。現代の地上戦ならば殺傷能力の高い種の銃器。はるか昔ならば刀であるとか。そうしたものを武器に敵と向き合う場所にいることを想像する。自分の身が吹き飛び、あるいは斬り倒される可能性のある最前線にいるそのような時、ずっと離れたところからその自身を見ているもう一人の自身を感じていることはないものだろうか。例えばのこと。                                     その最前線にいるのは仮の姿をした自身。本当の自分はこちら側にいるはずなのに、と思っている。だが、最前線に押し出されているその仮の姿とも思える自身こそが現実の真っ只中にいて、斬り倒されれば苦しみあえがなければならない。その死と共に、こちらにいた本当の自分と思えていた者も、消滅している。そうした現実という前線にいる自身と、距離を置いて見る、もう一人の自身が共に存在する私。そうした二人を抱える形になっている状況。居場所としては、不幸な匂いただよう処ということになるのでしょうか。

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夏樹静子の小説にあったこと

むかし読んだ夏樹静子の小説に、このようなものがあった。記憶に残っている。ひとりの男の首に、別の男の首を移植するというのである。よって、体はこちら、頭はあちらの男のものながら、ひとりの男となってしまう。その限りなく不可思議な、考えられない状況。自身の身をそこに置いて、想像できるだろうか。荒唐無稽とも思える、フィクションならではのものと承知しながらも、どのような具合になってしまうものかと、思いを馳せてしまう。それを考えた作者の特異な創作力。異常さゆえに、生々しさをもって、甦る。

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「馬込文士村」と呼ばれた地のこと

片づけものをしていたら「馬込文士村散策のみち」と題されたパンフレットがでてきた。東京の大田区土木部管理課、昭和63年3月発行。区立の馬込図書館あたりでもらったものだと思うけれども、発行日を見て、これを手にしたのがいつの頃のことだったのかを改めて知った。

012_2 パンフレットには「馬込文士村」命名の由縁について、「大正12年に、尾崎士郎と宇野千代さんが結婚して新居を構えたのが東京府荏原郡馬込村(今の大田区南馬込)です。その後川端康成、山本周五郎、室生犀星、萩原朔太郎といった文士たちがこの地に移り住み、馬込村は文士の交友が盛んに繰り広げられる場所となり」、近年になって「馬込文士村」と呼ばれるようになった、とある。                                  1979年に私は大森からその南馬込に越したのであるが、それまで文士村については知らなかったのではないかという気がする。記憶が定かではないが、馬込図書館の一角には「文士村コーナー」があったりで、関心を抱いて訪れ、その関係のものを借りたりもするようになった。そうして知った、その地に於ける彼らのさまざまなエピソードなど、やはり興味深いものがあった。何よりも、ここに載せたマップのような文士たちの住所地を見るうち、自身の住んでいる場所 と明らかに一致すると思われる人のいたこと。

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                                                      4丁目の49に片山達吉、の名がある。私の住んだ家と同じ番地、同じ位置である。何の知識もなかったが、調べて見て、銀行につとめながら文芸評論家として活躍した人であったということを知った。ちょうど、道路の斜め向かい側に川端康成の名があり、その殆ど隣りとも言える辺りに往年の俳優、池辺良さんの父親、画家の池辺釣の名がある。私の住んだ家は家としては末期にあるような古さで、9年ほど住んでそこから越したのも、取り壊されることになったという理由による。それほどだから、その片山氏が同じ家に住んでいたということも、充分に考えられるように思えるのである。1980年代当時からしても、はるか昔のこと、私の住んだ家の手前の臼田坂にしても、当時は土の道でおそらくは下駄などをはいた着物姿で彼らの誰かは歩いたものなのだろうが、ただそうしたことを想像させるだけの、多分当時の面影はどこにも残されていないのではないか、と思わせるような現在の眺め。だが、そこを彼らが通り、近辺に住んでいたのは確か。なにか残るものを、今のその地に重ねていることがあるのだった。このマップ一帯に見える名前の多彩なこと。やはり並々ならない、特異と思われる現象、と言いたくなるものがあったように映ってしまう。                                              私の住んでいた家のすぐ近くには日本画家の川端龍子(1885-1966)。私はその住まい跡に建てられたものと思える、歩いて2分とかからない見上げるほどの彼の大作並ぶ龍子記念館に、時たま出かけていた。往時を身近に感じることのできるような、場であった気がする。管理する身内の方であったと思う。夏の頃など窓を開いていた、その館内の休憩席に腰を下していると、お茶を運んできてくれたりなどした。そのようなことも、思い起こす。                                           

家の前の臼田坂ということでは、坂上の方に住んでいたらしい俳優の長岡輝子さんが住まいに向けて歩いて行く姿を、見かけたことなどもあったけれども。ついでながら、すぐ近くで車がエンストを起こしたらしくどこかで聞いたような声を上げている、やはり俳優の田中邦衛さんを、見かけたことなどもあったり。            9年余住んだ、懐かしい地である。

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1986年頃の臼田坂

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Blackbird 一羽路上にて死去す

005_2  前日の朝、駅への路を行く途中ずっと前方、車道の端側になにか黒っぽいものが見えたのである。ちっょうど船橋中央消防署夏見分署の8、90メートル手前辺り。何であるのか、分からない。衣服のようなものであるのかもしれないと思いはしたが、クルマに轢かれたネコの死体のようなこともありうる、というようなことも頭をよぎる。あんまりそうした不可解なものを前方にするような場には巡り合いたくないものだと思いつつ、ともかく行くしかないので近づいていく。                 少し前にも朝、同じ道路5、60メートル後方のところで、道路中央近く、首のあたりから血を流して死んでいる鳩に出合っていた。クルマに轢かれたものか。自身としては飛ぶことのできる鳩のその可能性、考えられないようなことではあったのだが、ともかく車道の真ん中あたりで、血を流して死んでいたわけである。そのままでは、やってくるクルマに轢かれて無残なことになってしまう。クルマが途絶えているのを見て、そばに行ってその膨らみのある体を両手に入れ、道路脇の植え込み前の草叢に置いてあげた。そうしたことが少し前にあったばかりだから、良からぬ予感なども生じてきてしまうのである。                           そうして、近づいて眼にしたのが亡くなっているカラス。端に近い側ではあるが車道の内。クルマの通る可能性がある。そのままにはしておけないので、持ち上げて歩道の端に移した。場所が場所だけに、クルマによる死、ということを最初に思ったのだけれども、前の鳩とちがって血を流していたわけではない。あとになってそのことを思い、そのような場所での自然死ということも考えられないから、衝突によるショック死ということでもあったのかと推測してみたのだが、どうなのだろう。分からない。                                            たまたま出会ってしまった、そのような一羽のカラスの死。人の死、動物の死、、それを前にして感じることは、同じようなもの。悼む思いなく、通り過ぎることはできない。

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color/あでやかさで負けない

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生まれながらに

美しい

と言われている

それがわたしたちの

宿命

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