肌の微妙/見るほどに
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何ミリもないような小さな粒。そんな粒の集まり。一つの細い枝に沢山見える。道路沿いの家の敷地際から、低い細い枝がこちらに伸びている。 どこかしらには、新しく加わっているものもあるのかもしれない。だが、道に沿って見える木や草花の模様は、毎季節、変わりのないもののように思える。今の季節なら、もうちょっと先のあの太い樹の幹の色具合、辺りの草の様子はこんなふうと、記憶のままに思い描くことができる。通りなれた、この辺り。 この敷地の家には道路際に、はるか以前に亡くなったあるじが、そこで大切に花や植物を育てていた名残りの温室がある。50代と思える独り暮らしいその息子の姿が、そこに見えたりなどする。なにするともなく、ちょっとさみしげに映る様子を見せて、ただ腰をおろしたりなどしている。
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午前中、中山にちょっと。京都の秋華賞の馬券などを買いに。曇り。最近は時たましか行かないのであるけれども、いつに変わらぬ辺りの様子。門前の広い市川松戸道路の信号両サイドには、いつも見る警備員の顔も見えて、競馬好きそうな老若の者たちが、たのしみありげな表情で入口へと向かっていく。たいていは、今日もどうもイマイチ、あるいは損はしたけれどもたのしんだんだからまあいいさ、などと胸内で思い思いにつぶやきつつ、そこからでてくることになるんだろうな。 こちら、たまたま大きい蜜柑をひとつ持っていたのである。それと二センチとない、途中の路上で見つけてしまった粒のような、でもそれも蜜柑であったもの。二つをそこでカップル仕立てに。ハイセイコーは、パドックを向こうに、いつもの姿。
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人の手で生み出されたものをわれわれ、美術館などで見る。さまざまなスタイルで表現されたもの。興味深いことですね。人間の表現欲。その形としては、常に小さく限定されたものになります。私などがいつもイメージしたがる水平線。その360度というのも見ることのできる位置というのがあるでしょうが、それほどでなくても良い。その端から端まで届くようなサイズの人の手になる表現などというものは、見たくても叶わないもののようですな。そこで、それを可能にするにはどのような手があるか、人間のひとりである私も考えてみます。などということはする必要もないですか。別に誰もそのようなものは求めていない、ということとなると。 我々、面白い、不思議な動きをしているものですよ。壁の内外で。表現なるもののために。でも、こと人間の手にかからない、そしてそれ、既に立派に表現されたに等しいもの、外にあふれているようにも思えるのですがね───。
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空気よりも軽いのではないか、蝶。広げる羽の立てる音、花びらに止まる音、確かに発せられるものではあるだろうけれども、それまた考えられないほどに、数万キロ彼方の爆音のように遠く、届かない世界のもののよう。そこで進行していることに気づく人もまた皆無。神でさえご存じないことだろうな。赤い思いの炎など、どこにも見えないものだしね。そもそもそのような思いがあるのかどうかも夢の世界のことのように、地の果ての彼方ほどに見えることがない。 なんてことを思うのは、あなただけかもね。その花や蝶のはるか下の方で、天上世界を見上げるみたいに様子をうかがっている永遠のような暇時間を過ごす名のない生きもの。その眼。みんなわれらの知らない、別次元の世界のお話ということになるんだろうな。
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